やりたいことが見つからないあなたへ【SKBはなぜ医学部に入ったのか】

医学部の6年間

こんにちはSKBです。今日はやりたいことが見つからない人だったり、自分の進路について悩んでいる人に対して何かヒントになればと思い話をしていきたいと思います。今日する話は医学部の面接対策などに利用できるかもしれません。自分のやりたいことがある人もない人も、今一度、自分のやりたいことについて考えてもらうきっかけになればと思います。

やりたいことがあるから大学に行くのか?

「何かやりたいことがあるから大学に行くんだよ。」という人も多いと思います。

家庭教師などで何人もの教え子を大学に送り出してきましたが、必ずしも彼らは明確な目的意識を持って大学を目指し、進学していったわけではありません。行ける範囲、手の届く範囲から大学を選び、大学から選ばれて進学していったのです。

でもそれが普通なのです。

明確にやりたい何かがあり、それに向かって突き進むことができるだけの幸運を持ち合わせた人間はごく一部の人間だけだと思うのです。

やりたいことは本当にないのか?

しかし、私がみなさんに問いたいのは「やりたいことは本当にないのか?」ということです。

きっと何の制限もなければ多くの人に「やりたい何か」は見つかると思います。

考えてみてください、神様が「望めばなりたい何者にでもならせてやろう」と言ってきたらどうしますか?私は、何にでもなれるならパイロットにだってなってみたいし、物理学、工学部の教授になって宇宙開発だったりロボット開発だったりを担う仕事をしてみたいです。あなたも俳優だったり女優、モデルになってみたいだったり東大に行ってみたいだったり何かしらのなりたい自分があるのではないでしょうか?

そうです。あなたはなりたいものや、やりたいことがないわけではないのです。

やりたいことがないのではなく「なれるものの中にはやりたいことがない」または「手の届く範囲にはない」がより正しいのではないでしょうか。

その手の届かない範囲には自分の努力ではどうにもならない金銭的だったり身体的な問題も多く含まれるかもしれません。

それでもやりたいことがないわけではないのです。やりたいことは出来なさそうだから、やりたいと声を上げることもなければ、挑戦することもない。ただそれだけなのです。

そして自分を納得させるように「やりたいことはない」と言っているだけなのです。

誰にでもやりたいことに向けて挑戦するチャンスがあるわけではないかもしれません。しかしもしあなたにそのチャンスがあるのならば、「やりたいことはない」と言う前に挑戦してみるのはどうでしょうか。

医学生SKBはなぜ医学部にいるのか

私が医学部に進学したきっかけはシンプルで、人が倒れた時に知識がないと困るから程度のものです。

誤解を恐れずにいうと私は医者になりたいから医学部に進学したわけではありません。

私は人が死にそうな時に、大事な誰かに最後のお別れを言うだけの時間を稼ぎたいと思い医学部に進学しました。

そもそも私は医学科に入るか、看護学科に入るか、それとも大学には行かないかの3択で最初は迷いました。

大学に行かなくても知識として医学を学ぶこともできるし、手技を学ぶことは出来ます。

最初は大学に行くための意義を考えました。大学に行くための意義としては解剖などの体験ができること、そして日本で医業を行うための資格が得られると言うことがあります。国によっては免許なんてなくても医業を勝手に行なっている地域もあり、そもそも「人の命を助けたい」が目的ならば日本の医師免許を取得する必要などないのです。ましてや日本の大学に進学する必要などないのです。

私の場合はそもそもの目的が「医者になりたい」ではなく、「私の目の前で倒れた誰かの命を少しでも繋ぐ」ことなので、日本で生活していることが前提にあります。この場合、医師免許などの資格などがなくても胸骨圧迫などの心肺蘇生を行うことは出来ますし、AEDを使用することも出来ます。

しかし、私は考えました。誰かが倒れた時にそこにいたのが「私」だったから、その人は助からなかったとしたら?私のせいでその人が死ぬとしたら?

とても悲しいことだと思います。人の命に携わる時に私が無知で無力であるためにその人が死ぬようなことは悲劇的であると考えました。

だから私は医業を専門的に学ぶために大学に行こうと考えました。これが医業を行うものの責務だと感じました。

次に看護学科にするか医学科にするかの問題です。

別に人の命を救うために医者になる必要などないと思います。最近もニュースでAEDの配置などを調べて学校かなんかで発表した小学生ぐらいの女の子が倒れた人を蘇生したと報道されていました。医師免許なんて持ってなくても人の命は救えます。

なので看護学科も当然考えました。実際に当初私は看護学科に行こうと思ってました。

しかしあるニュースがきっかけで考え直しました。

それは救急救命士さんが心肺停止状態の患者を救急搬送中にアドレナリンを静注(静脈注射)するのに1回目は電話をすることで医師から指示をもらい静注したのに、2回目は医師へ電話をせずにアドレナリンを静注したことによりニュースになっていたというものです。

救急救命士や看護師は実は勝手にはほとんどの医療行為は行うことができません。しかし「医師の指示の元」行うことのできる「特定行為」と言う区分があります。そのため医師の指示があれば医業を行うことができるのです。今回の救急救命士さんも特定行為を行うために医師の指示が必要だったのです。

この医師の指示を待つ少しの時間によってその患者が助からなくなる可能性があるのです。これも、そこにいたのが私だったから患者が助からなくなる可能性が生じるのです。なので患者にベストな医療を提供するためには医者である必要があると感じました。私が医師免許を持ってないために、その人が死ぬのでは私は自身を許せそうにありません。

だから私は結局、医学部に行くことにしました。

当初私は「医者になりたい」のだろうと自分自身のことを考えていました。

しかし、私は医者になりたいわけではなく、「人を救えるだけの技術を身につけたかった」だけだったのです。

私の思う最も悲しい死は慢性的な病気による病死ではなく交通事故などでの突然の死です。朝行ってらっしゃいと送り出したのを最後に会話をすることは2度とないと言うのはあまりに悲劇的だと思うのです。

先日、安倍元総理大臣がテロの被害により亡くなりました。奥さんが病院まで急行したようですが、おそらく最後の一言を交わすことなく、今生の別れとなったのではないかと思います。非常に悲しいことだと思います。

このような悲劇を少しでも減らすために私は医業を行うだけの技術を身につける必要性を感じたのです。

高齢化が進み、ますます脳卒中や心筋梗塞などの緊急を要する疾患が増えてきます。そうすると私が日常生活を送る上で、このような悲劇的な場面に出くわすことは確定しているようなものです。私が無知で無力なためにこのような悲劇を起こしてしまうことを私は容認できません。

私は他人のために誰かを助けたいのではなく結局自分のために誰かを助けたいのです。

誰かが死ぬのが私のせいでは、私は自分を許せないからです。そこにいたのが私だから、その人は死んだなどとは誰にも言わせないよう努力していきたいと考えています。

医学部への進学も「なりたい自分」であるための手段の一部だったのかなと考えています。

まとめ

長くてわかりにくい文章になってしまったので軽くまとめます。

・そもそも私は人が死ぬまでの時間稼ぎをしたいと考えた。

・私が無知なために時間稼ぎができず、人が亡くなるのは悲劇的なので専門的に医療を学ぼうとし、医学科へ進学した。

・結局自分を見つめ直すと医者になりたいのではなく、私のせいで誰かが最後の言葉を交わすことなく死ぬのは嫌だから、必要な知識と技術を身につけるために医学科にいる。

つまるところ、私のやりたいことは医者になることではなく、自分のエゴを貫き通し、自分らしく生きることだったということがわかった。

私が伝えたかったのは

やりたいことは本来あるはずである。それが特定の職業とは限らず、「やりたいことは」は自分の生き様を貫き通すことの場合もある。その生き様を遂げるために何かの職業につくこともあるというものです。

私は医者になりたいわけではなく、私の信念を貫くために医者の技術と知識資格が必要なだけなのです

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